2011年 01月 01日
模索1 |
最高に興奮する幸せなことってのは、本当の自分でいられる事だと思う。
と、まず「興奮する、幸せなことって何か」を考えてて思いついた答え一つ。
私は実家にいる時に両親や兄の制約が厳しくて、もう早く自分の居場所が欲しいと毎日のように思っていたけど、もっと幼少の頃は息苦しいほど自分の場所がないって思ってて、それはドラムを叩いた瞬間から抜け出せたのだけれど、本当に課題なのは「自分の場所」を見つけるんじゃなくて、いかにどこにいても自分らしくいられるかって事なんじゃないかなーと最近思う。(それは現実的には物理的に不可能だとしても)
んで、自分らしい自分ってなんだろうってここんとこ考え中。
空を見て考えてても点ばかりで線にならんので、思ったまま書く。
これは自分メモ。
例えば職場の自分は自分らしいか?それとも自分らしくないか?
たぶん、そんなに無理して作ってはいない。
幸運なことに、大学を卒業してからずっと同じ職場で働けているので皮をかぶったりいらなすぎる気を使ったりをしなくていい職場だし、まわりもそんな私をなんとなくわかってくれててほうっておいてくれてる。
そんな感じ。
だから自分らしくないとは言えない。
でも仕事場で一日働いてもああ気分よく過ごせたぁ。と思う日なんてほっとんどない。
だいたいにおいて仕事をしてるので(当たり前だ)人と深く交わることがないし、
自分の思った事とか感じた事とか、疑問でしょうがない事とかを人に話して思考を前に進めることができないから。
話して、それに対して反応をもらい、そうかなぁ、そうじゃないんじゃないのかなぁ、いやでも言う通りかもしれない、じゃあどうして私はこうなんだろう、等々思考を前に進める作業が凄く好きなんだ。
だから職場では100出したいのを5ぐらいで収めてる感じ。
でも繰り返し言うがそれは当たり前だよね?職場は仕事をするところであって、自分探しの場所じゃない。
そこから判断すると、それについての自分らしさってのは他人にもっとアピールして他人に見てもらいたい見てもらいたい!!って言ってる駄々っ子なんだろうな。
就職活動してるときにたくさんの心理テストみたいなのを受けて、その結果で笑われ気味に言われた事があるんだけど、
「あなたは『あなたの事も認めるから、自分の事も認めて!』って気持ちがとんでもなく強い人ですね」って台詞で、その時もこの「見てもらいたい」欲求が凄く前に出てしまっていたのかもしれないなと思った。
「見てもらいたい」それが本来の自分。
一つのキーワードだな。
見てもらいたいと言えば思い出すのは母親だな。
幼少の頃、3人兄弟だからいつもお母さんが私だけのそばにいてくれる事がなくて、凄く凄く私だけのそばにいて欲しかった。んで私だけを見て、瞬間的にでも私だけを好きだって言ってほしかった。
と言う記憶がある。
んで、たまーに風邪引いて幼稚園とか小学校とかを休むと、他の兄弟は学校に行ってて家に二人きりになるので、お母さんが私だけのものになった気分になって、大いに照れまくって照れまくって結局あまり甘えられなかった。ぎゅーって抱っこしてもらった記憶もあまりないし、好き好きって言ってもらった記憶もない。
母は私が娘を可愛いとか大好きだとか抱っこ抱っこしていると、「まー自分の娘にそんな可愛いとか好きだとか言った記憶ないわ。だってそんなの当たり前な事だって思ってたもん」とつぶやかれたので、本当に言われなかったんだろう。今よりもっと生は当たり前だったし溢れていたし。
だからきっとこの見て欲しいと言う欲求は子どもの頃にたまってたまって今に至ったんだろうなぁ。
ってところで今日は寝る。
と、まず「興奮する、幸せなことって何か」を考えてて思いついた答え一つ。
私は実家にいる時に両親や兄の制約が厳しくて、もう早く自分の居場所が欲しいと毎日のように思っていたけど、もっと幼少の頃は息苦しいほど自分の場所がないって思ってて、それはドラムを叩いた瞬間から抜け出せたのだけれど、本当に課題なのは「自分の場所」を見つけるんじゃなくて、いかにどこにいても自分らしくいられるかって事なんじゃないかなーと最近思う。(それは現実的には物理的に不可能だとしても)
んで、自分らしい自分ってなんだろうってここんとこ考え中。
空を見て考えてても点ばかりで線にならんので、思ったまま書く。
これは自分メモ。
例えば職場の自分は自分らしいか?それとも自分らしくないか?
たぶん、そんなに無理して作ってはいない。
幸運なことに、大学を卒業してからずっと同じ職場で働けているので皮をかぶったりいらなすぎる気を使ったりをしなくていい職場だし、まわりもそんな私をなんとなくわかってくれててほうっておいてくれてる。
そんな感じ。
だから自分らしくないとは言えない。
でも仕事場で一日働いてもああ気分よく過ごせたぁ。と思う日なんてほっとんどない。
だいたいにおいて仕事をしてるので(当たり前だ)人と深く交わることがないし、
自分の思った事とか感じた事とか、疑問でしょうがない事とかを人に話して思考を前に進めることができないから。
話して、それに対して反応をもらい、そうかなぁ、そうじゃないんじゃないのかなぁ、いやでも言う通りかもしれない、じゃあどうして私はこうなんだろう、等々思考を前に進める作業が凄く好きなんだ。
だから職場では100出したいのを5ぐらいで収めてる感じ。
でも繰り返し言うがそれは当たり前だよね?職場は仕事をするところであって、自分探しの場所じゃない。
そこから判断すると、それについての自分らしさってのは他人にもっとアピールして他人に見てもらいたい見てもらいたい!!って言ってる駄々っ子なんだろうな。
就職活動してるときにたくさんの心理テストみたいなのを受けて、その結果で笑われ気味に言われた事があるんだけど、
「あなたは『あなたの事も認めるから、自分の事も認めて!』って気持ちがとんでもなく強い人ですね」って台詞で、その時もこの「見てもらいたい」欲求が凄く前に出てしまっていたのかもしれないなと思った。
「見てもらいたい」それが本来の自分。
一つのキーワードだな。
見てもらいたいと言えば思い出すのは母親だな。
幼少の頃、3人兄弟だからいつもお母さんが私だけのそばにいてくれる事がなくて、凄く凄く私だけのそばにいて欲しかった。んで私だけを見て、瞬間的にでも私だけを好きだって言ってほしかった。
と言う記憶がある。
んで、たまーに風邪引いて幼稚園とか小学校とかを休むと、他の兄弟は学校に行ってて家に二人きりになるので、お母さんが私だけのものになった気分になって、大いに照れまくって照れまくって結局あまり甘えられなかった。ぎゅーって抱っこしてもらった記憶もあまりないし、好き好きって言ってもらった記憶もない。
母は私が娘を可愛いとか大好きだとか抱っこ抱っこしていると、「まー自分の娘にそんな可愛いとか好きだとか言った記憶ないわ。だってそんなの当たり前な事だって思ってたもん」とつぶやかれたので、本当に言われなかったんだろう。今よりもっと生は当たり前だったし溢れていたし。
だからきっとこの見て欲しいと言う欲求は子どもの頃にたまってたまって今に至ったんだろうなぁ。
ってところで今日は寝る。
by 93-69_show
| 2011-01-01 23:41
| me